●恩師・堀口捨巳との日々
その一
ある日、先生のお茶会に呼ばれたとき、畳の上に美しいお茶菓子の器が
置かれていた。皆がその器に目を見張ると、なんとそれはプラスチック製
のキャンディボールであった。
その二
明大時代、先生の研究室で学生会館の基本設計を手伝っていたとき、
どうしても階段の踊り場がうまくおさまらなかった。先生は図面をいじりながら、
なんと壁をぶち抜きそこを広いステージにしてしまった。
●私、宮崎は・・・・
●学生時代、モダニズム建築を学ぶ中で、古寺巡礼の国内旅行をした。
その旅で日本の伝統建築の表現様式美に触れ、
その後の建築家としての立脚点となった。
●ある家の改築を依頼され、そこの亭主からどうしても書斎が欲しいと頼まれた。
狭いスペースにどうして書斎を確保するか考え抜いた末、一畳の床の間に明かり窓を取り、
そこに文机を置き、書斎とし、亭主から喜ばれたこともある。
●その他、寺の設計を頼まれ、屋根の曲線を出すのに職人から学んだ話。
本堂の天井に極彩色の模様を描き、その色彩が格子に映り込んで虹になった話。
丹後半島の漁村集落と祭りの話等。
融通無礙のデザイン談が展開する。 恩師堀口先生の唱える
「事物的な要求が満たされるところに建築の形が自然に生じて様式が生まれる」
その教えを守り、宮崎孚は今日も住宅建築に現代の"数寄"の表現様式を追求しながら、
確かな創作活動を続けている―――。
H 12.6.15
(北尾・取材)